句の意味・現代語訳
原文 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに |
日本語訳 この度の旅は、群を掲げることもできない。さしあたって手向(たむけ)の山の紅 葉の錦を幣として捧げるので、神のお心のままにお受けとりください。 |
句の解説
手向の山の錦さながらの紅葉の美しさ。
「古今集」の詞書には「朱雀院の奈良におはしましける時に、手向山にて詠みける」とあります。朱雀院は宇多上皇のこと。帝位にあったころ、作者の菅原道真を重用した。退位後は、道貞らを伴って、大和(奈良)地方への大旅行を行いました。宮滝(奈良県吉野の地名)御幸と呼ばれるこの旅には歌人たちも随行し、多くの歌が残されました。この道真の歌もその折の一首です。
神に捧げる幣としては、持参した錦の切れ端よりも、手向の山の紅葉の錦のほうがふさわしいというのです。これは間接的に、手向の山の紅葉を、錦織の華麗な美しさとして浮かび上がらせる趣向です。幣・錦・紅葉を、知的で華麗な連想でつないだ一首です。
作者大江千里は、文章博士で、すぐれた漢詩人でもありました。漢詩句を題にして和歌を詠んだ「句題和歌」の編者としても知られます。この歌も白居易「白氏文集」の中の「燕子桜」という詩の「燕子桜中霜月の夜 秋来たって只一人のために長し」によっているとされます。それを、いかにも和歌らしい表現として詠んだ歌だともいえましょう。
句の語句語法
このたびは | 「たび」は「度」に「旅」をひびかせる。 |
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ぬさ | 木綿や錦の 切れ端で作られた、神への捧げ物。旅行の際には、これを道々の道祖織に捧げ て、旅の無事を祈った。 |
とりあへず | 「とる」は、棒げる意。「〜あふ+打消」 は、~しきれない、の意。紅妻のあまりの美しさに、持参した驚の鏡などは棒 げられない、とする。紅葉を錦に見立てながら、その美しさを強調した。行幸 が急で、酔の用意ができなかったので、と解す説もある。
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手向山神に | 「手向 け(供えること)」をする山、の意。固有名詞ではない。紅葉の錦紅葉の美し さを着物の錦織に見立てた表現。 |
神のまにまに | 神の思うままに、の意。 |
句の季節・部立
和歌を季節等のテーマ別に分類したもの。
部立 |
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旅 |
句の作者
菅家(845~905)
菅原道真のこと。当代屈指の漢詩人。文章博士。宇多天皇に仕え右大臣となりますが、藤原時平の讒言で冷遇され大宰府に左遷され、そのまま没しました。
句の出典
出典 |
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古今集 |
羈旅(420) |
句の詠み上げ
句の決まり字
決まり字 |
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この |
句の英訳
百人一首の句の英訳です。英訳はClay MacCauley 版を使用しています。
英訳 |
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At the present time, Since I could bring no offering, See Mount Tamuke! Here are brocades of red leaves, As a tribute to the gods. |