鉄砲伝来とは

日本に初めて「鉄砲」がもたらされたできごと

鉄砲は日本発祥の技術ではなく、ヨーロッパ(南蛮)からもたらされた武器技術でした。室町時代に伝来したとさる鉄砲の衝撃は相当なものでした。伝来以前の日本では戦争において刀などの接近型の武器を中心に戦っていたため、鉄砲による携帯可能かつ遠距離型の殺傷力の高い武器は非常に画期的なものでした。

室町時代の戦争シーンを大きく変える当時最強の武器の1つとして戦国時代の戦争にまたたく間に広まったのでした。

鉄砲とは「火縄銃」のこと

当時伝来した鉄砲は「火縄銃(ひなわじゅう)」と呼ばれる銃でした。火縄銃は、銃口から弾丸と火薬を入れ、火縄についた火が詰めた火薬を爆発することで、鉛玉を発射する仕組みです。

1542年「種子島の鉄砲伝来」が通説

通説は1542年の種子島伝来です。しかし、実は鉄砲伝来については諸説あることが知られています。そもそも種子島に伝来する前から鉄砲が伝わっていた説も存在し、種子島ではなく別の過程を経て日本にもたらされた説も存在します。

例えば、倭寇の王直(おうちょく)が松浦(長崎県北部)に持ち込んだ説も存在しますが、一般的ではありません。

種子島の鉄砲伝来

漂流したポルトガル人から火縄銃を購入したことがはじまり

「中国船(明の密貿易船)」に乗っていた「ポルトガル人」が種子島に流れついたことがすべてのきっかけと言われています。1543年のことで、当時は戦国時代でした。当時の種子島の領主である「種子島 時堯(たねがしま ときたか)」は丁寧に彼らをもてなし、彼らが所持していた「火縄銃」に目をつけて2丁を高額で購入したことが始まりと言われています。

一丁をもとに種子島にて国産化した

種子島時尭は1丁を持って種子島の刀匠に与え、その複製をすることを命じました。刀匠は1年間をかけて複製に成功し、国産化に成功する第一歩となりました。

もう一丁が国友に伝わり名産地化した

種子島時尭は入手した残りの一丁を薩摩国の「島津義久」に献上しています。島津義久は室町幕府12代将軍「足利義晴」に献上し、足利義晴は製鉄で有名な近江国「国友」に伝え、彼らも国産化に成功しました。また国友はその後、「堺」「根来」と並び称される鉄砲の名産地として知られました。

「南浦文之」が著した鉄砲記に記される

種子島の鉄砲伝来は禅僧である「南浦文之」(なんぽぶんし)が著した「鉄砲記」の記述に基づいています。鉄砲記は南浦文之による歴史書で、種子島伝来の20年後である1606年、つまり江戸時代になってから書かれました。

鉄砲伝来に諸説があると言われ、種子島伝来説に確定しない理由は鉄砲記自体が種子島時尭の功績を後世に伝える歴史書であるためです。この点が、鉄砲伝来の資料として信頼性にかけると言われている理由で、他の説も有力とされる背景です。

鉄砲伝来による戦法の変化

集団戦法が中心に変わった

刀を持った兵の一騎打ちではなく、鉄砲隊をそろえた 集団戦法 が主流になりました。

鉄砲が普及していく中で、弓兵に鉄砲兵を混ぜて戦う戦法が一般的でしたが、織田信長が「長篠の戦い」で証明した鉄砲の一斉射撃の大量殺傷能力は凄まじく、戦国時代の戦法の中心的なスタイルとして各大名に取り入れられました。

紀州の根来寺等で生産されるようになった

全国的に鉄砲が戦術の中心となることで、鉄砲の需要は爆発的な増加を見せました。結果として、鉄砲伝来後、真っ先に生産体制を作ったとされる国友だけでなく、鍛冶職人の街であった紀州の根来寺、堺などでも生産が広がることとなりました。

城が変化した

鉄砲が戦争の主力武器となるに連れて、室町時代に主流だった「山城」から平山城を経て「平城」へと変化しました。火縄銃の特性によるもので、火縄銃は銃口から鉛玉を入れるため、山の上から鉄砲に鉛玉を入れ、山の下から攻めてきた敵に銃口を向けると玉が落ちてしまうためでした。

戦争の決着が早期につくようになった

鉄砲によって戦争の決着までの時間が短くなりました。このことが戦国時代の進展を早め、多くの戦国大名が全国に分散していた状況を変え、少数の大名がその他の大名を従え、強大な大名がより大きな領地を占める状況に変化しました。